涼宮ハルヒの憂鬱」"あらためて"放送は終了しましたので、ネタバレレベルを改定します
台詞の記述はアニメ版を優先します。引用に付けたタイムコードはyoutubeにupされた動画のものを見て付けていますが、あまり精度はありません。
- レベル0
- 「涼宮ハルヒの憂鬱」について全くしらない人向け。原作小説もDVDも前回放送も知らない人。
- レベル1
- 期放映分を視聴した人向け。
- レベル2
- 文章が書かれている時点でDVDになっている分を視聴した人向け。
- レベル3
- 「あらためて」放送分を視聴した人向け。
- レベル4
- 原作「憤慨」まで読んだ人向け「長門さんの小説っていいよね」
- レベル5
- 原作「分裂」まで読んだ人向け「『わたぁし』って誰?」
雑記 Diary2010/03
ネタバレレベル0:「涼宮ハルヒの憂鬱」について全くしらない人でもOK。
仕切りなおし。
どうやら私は褒めるのが苦手らしい。褒めているつもりだったのに「そんな事言う事ないのに」なんて返されることが多いと感じています。
本雑記では、基本的には褒められないものは紹介していないはずなのですが、人によっては「水上の奴、lain嫌いなのか」などと思われるかもしれません。私は気合を入れて望むべき作品だと書いたつもりですが。
思いつく限りで褒めていないのはTVのバラエティー番組だけですが、これも「今の私にとっては」キツイといっているだけで、番組の価値そのものについて云々したつもりはありません。
ひょっとして「こいつ、ハルヒそんなに嫌いなのか。長々デムパ欝考察しまくって何が楽しいやら。ドSかよ」と思われている方がいるかもしれないので書いておきます。
「涼宮ハルヒ」シリーズは、主要登場人物全員がお互いに本音を話せない事情があります。そして主人公でありナレーターであるキョン自身にも、ヒロインに言えない、そして独白で自分自身にすらいいたくない事があります。さらに悪い事には、作品の設定自体がそんな、好きな人と素直に向き合えない、ちょっと斜に構えた主人公の弱さを糊塗する理由付けになっています。
この作品は、主人公と一緒に青春時代の痛みを再体験する作品なのだと感じています。ですから、登場人物達がひょっとしてこんな事を考えていたのかもしれないと想像を巡らせる事は作品を楽しむ上で重要なことだと考えます。
時折、某掲示板で「キョンはハルヒに黙ってる所がいいんだよ。ハルヒは本当のことを知らないのが正しい」などという書き込みがありますが、そういう人とはまあ、別の楽しみ方をしているのだと思います。
以降、苦言を書く場合には、はっきりそのように書くことにしますので、「これからけなします」と書かれていない場合には褒めているのだとご理解いただければ幸いです。
ちょっと、昔の事を思い出したので書いておきます。さしさわりがあると困りますので、ひとりを除いて仮名にしておきます。なお、実験映画や個人アニメーションの話になりますが、興味の無い方は、まあそういう作り手や作品もあるんだなあとご理解ください。
ある上映会の折、ブラケイジの作品の話題になりました。
今は亡き田辺幸夫さんが、「ブラケイジねえ、以前は随分見たけれども、今はちょっとね」とか「いやあ、なんせコレだからね(カメラを上下左右に激しく振る身振り=目が疲れるので鑑賞には労力が必要だという意味)」と言われて、私の「『ドッグ・スター・マン』って、赤ん坊のスチルや太陽のプロミネンスが燃えるスチルを見て、それで期待して見に行くとびっくりしますよね。そのカットがすぐ終わっちゃって」にも、にこにこされながら「あれは看板に偽りありだよなあ」としみじみ言われていました。それでも、何度も「昔は何度も見たんだよ」を繰り返されていたのが印象的でした。
そのあと、その上映会に招待出品されていた作品の話題になりました。
私が「あれ、○○法(手法の名前)使っているんでしょうね」「こんな風に(身振り)動いていたでしょ?○○法だと思う」と言ったところ、その場にいらっしゃったA氏が急に「そんなことないでしょ、△さんはちゃんとやってるよ!」と強い口調で言われたので驚いてしまいました。
一体何故そんなことをAさんが言われるのかまったく解らなかったのですが、B氏がその場でとりなしてくださったおかげでその場の雰囲気はやわらぎ、事なきをえました。
私はその時、ブラケイジが好きだと言ったつもりでしたし、田辺さんのお話も、ブラケイジ作品は目が疲れるにもかかわらず好きだと仰っていたと感じました。その招待作品についても、私は手法について推定し、細かいところにも気を使っている作品だと賞賛したつもりでした。
Aさんはひょっとすると、田辺さんも私もブラケイジが嫌いだと言っていたと思われ、私が某招待作品を手抜きと貶したのだと誤解されたのかもしれない(なにより△さんって一体誰?状態でした)と気付いたのは、数年たってからでした。
Aさん他、その場にいらっしゃった皆さんのなかで、私がだれか/なにかを貶していたと思われた方にはお詫び申し上げます。私の気の回しすぎならばありがたいのですが。
レベルX:「消失」予告編を見る事に躊躇の無い人
4つの書きかけ文章を同時進行させていて、どれも完成しない悪循環。書けたものからうpの予定です。
「涼宮ハルヒの憂鬱」特設ファンサイトで、『「涼宮ハルヒの消失」劇場版TV-CM 絶賛公開中編』が公開されています。
youtubeでも、高画質版がうpされました。
しかし、この猛烈な寂寥感はどうでしょうか。閉まってゆく扉の向こうで手を振る朝倉の笑顔のいとおしいこと!
原作ではまた明日ね
(p.101)のシーンなのでしょうが、これはいくらなんでもまた明日ね
じゃないでしょう。もう一生会えないという演出ですよ。
夏は8回繰り返されましたが、失った時間は、二度と取り戻す事ができない
事を気付かせてくれました。
たった一度の冬もまた、忘れないでいてくれよ
と語りかけてきます。
「驚愕」の先行掲載も決ったようです。
某掲示板では
ネタバレレベル3 : 「あらためて」放送分を視聴した人向け。ただしリンク先は原作既読者向け。
539 名前: 見ろ!名無しがゴミのようだ! [sage] 投稿日: 2010/02/21(日)16:08:23 ID:IgF9xSXI
俺の感性がおかしいのかもしれんが
ハルヒは何となくオタアニメの革をかぶったその実
ベタベタの少女漫画のような気がする。
それも昔っぽい漫画ね。
580 名前: 見ろ!名無しがゴミのようだ! [sage] 投稿日: 2010/02/21(日)16:51:53 ID:h297uQmM
>>574
女性の心理描写とかほかにも色々要素はあるでしょ。
「なにも言わないことで心情を言わせる」手法を多用するとか。
サムデイインザレインとか一番強く出てると思う。
>>575
私は少女マンガに慣れているので。。>>539は判らないけど。
劇場版「涼宮ハルヒの消失」 Part47 539および580より
少女漫画には、「無限思慕もの」(今、本欄筆者が名付けました)とでもいうようなジャンルがあります。
要するに「私はあなたに愛されなかったけれども、あなたを思い続けます」というようなラストで終わるはずのストーリーを、伝奇や輪廻やらSF的無限ループなどで時間的に拡大してしまった作品です。
警告!:以下切ない系炸裂です。「長門が報われないなんてやだやだ!キョン長にならなきゃ角川にクレームメールを毎日100通出してやる」という方はご遠慮ください。
たとえば、*)
- 時間の流れが極端に遅くなる現象に巻き込まれた男。彼を追ってヒロインは現象エリアに飛び込む。ヒロインを愛していた研究者は、二人がゆっくりと駆け寄ってゆくのを年老いた数十年後も観測し続けている。彼にとってのせめてもの救いは、2人が手を取り合い若いまま現象エリアから駆け出してくる前には自身の寿命が尽きる事。
- 生物に進化を促す宇宙生命体と接触したヒロイン。超存在へと進化を始めようとする彼女にテレパシーでコンタクトを試みる主人公。進化を始め、爆発的に拡大されたヒロインの
認識意識の中で、主人公とヒロインの心は、自分たちが見知らぬ異星人の種族を何世代にもわたって見守りそだてる者(神?)となる幻影を見る。その長遠な夢の果て、ヒロインの声が響く。「もう人間ではいられない、行かなくては。でも、忘れないで」切り離される二人の意識。実際には何秒も経ってはいなかった。テレパシーの連結を絶たれて主人公は現実に戻る。超存在に触れて意識がこの上なく清明となった彼は、ヒロインと絶望的な距離が出来てしまったにもかかわらず、もう狂う事すらできない。ただ無限の人類の未来に自らの想いを託すだけ。 - 男が悪夢から目覚める。夢?夢だったのか。あの人は私のそばにいるではないか。突然の別れなどあるわけが無い。なに!何でこんな事に。待ってくれ。行かないでくれ。 ……あれ?夢?ひどい夢だったよ。あんな事あるわけ無いよな。あの子は俺の…(以下何回も何回も繰り返す)
- 古い日記。それは美しい不死の一族が住む村へと迷い込んだ先祖の記録。先祖は夢想家だったのか、それとも。つらく、長い病いと困窮と、そして二度の戦争を経て、日記は世代を超え受け継がれてゆく。日記を読み、死も病も無い者たちへの憧れを駆り立てる女たち。そして現代、日記は何代目かの持ち主の手にある。その
弟甥の学校に不死者たちが転校してくる。弟は日記の持ち主に笑いながら言う。今度の転校生は日記の人物と同じ名前だよ、と。持ち主甥はつぶやく「まさか、ね」……まさかね……
*2) - 繰り返し見る夢の中の男。彼に出会うことになるのだろうか。占い師は告げる。「輪廻の中で何世でも、なんど生まれても、あなたは彼に会う事も叶なわず、彼の足元にうつ伏して死ぬだろう」運命ならばせめて顔だけでも見たい。夢とも現実ともつかぬ繰り返しの中、死の運命が訪れる前に見つめあうことが叶ったかに見えたが……
そうですね、これこそ「エンドレスエイト」の長門です。
キョン視点のままでも、「エンドレスエイト」ラストの喫茶店での独白はそれっぽいですね。会話ではなく主人公の心理的葛藤が作品を駆動するところ、特に15話(Ⅳ)の映画館を思い出すあたりとか。
なんでこのネタをやったのかと言うと、名作SS「機械知性体たちの輪舞曲(ロンド)」を紹介したかったからです。無限の時を繰り返す長門の想いに胸が熱くなった人なら楽しんでいただけるものと思います。原作が「白雪姫」「眠り姫」がモチーフならば、こちらは「100万回生きたねこ」がモチーフです。第一話がすこしたどたどしく感じますが、長門視点でじっくりと原作が再構成されてゆきます。ぐいぐいと盛り上がっていって、まったく別角度から「消失」へと流れ込んでゆきます。出会いと別れ。永遠の繰り返しの彼方へ、そして彼女の新たな旅立ち。
ものすごく長いですが、長門スキーや朝倉スキーのみなさんならスタンディングオベーション間違いなしです。
*警告*もうすこし読んだら寝ようなどと思っていると、朝が来ます。もうすぐクライマックスだろうと思っていると、さらにどんどん盛り上がったり、終わったと思うと次の話が始まってしまいます。ご注意を。
こちらに作者「輪舞の人」さんのブログもありました。なんと長門スレ絵師「ABS」さんによる漫画化企画進行中らしい。これとかこれなんかいいですね。
もう一本。「佐々木さんの消滅」というSSを紹介。佐々木スレで発表時は不評でしたが、作者は最初と最後のほうはハルヒに、真ん中では朝倉に感情移入して書いているだろう事に気付くと面白く読めます。「佐々木の恋の話」じゃなくて「ハルヒと朝倉の失恋物語」として読むべきなのです。作者は女性ではないかと推測。
ほかにも佐々木スレには「巨人の歌」など、女性視点のイイSS多数。しかし「佐々木取り扱い説明書」って、もはや佐々木のキャラクターとは関係ない部分も…著者の理想的自我像じゃないのこれ。
*) ^ 作品名を記しておきます。ネタバレにつきご注意ください。上に書いたあらすじは作品を参照せずに記憶のみにたよって書いているので、かなり間違っているかもしれません。30年近く昔の作品ですし。
- 「金星樹」佐藤史生(あらすじは部分)/検索すると、ヒロイン視点で「かってオジ様だった彼と未来へ!」みたいな紹介が載っている。この作品は三人称視点で、3人の視点を分けて描かれるので淡々とした作品だったと記憶。研究者視点で読んで、身悶えるような感覚を味わったのも私だけではないでしょう。--おまけ。星野之宣の「愛に時間を」はこの作品のネガにあたります。→参考(100%ネタバレします)
- 「伝説」水樹和佳(あらすじは部分)/上のあらすじが中二病っぽく見えるのはそういうネタの元祖だからです。そういう部分を割り引いて読めば、いまでも傑作です。
- 「ヴィオリータ」萩尾望都
- 「グレンスミスの日記」萩尾望都
- 「酔夢」萩尾望都 この作品のプロローグ部分です。(間違って憶えていたのであらすじを修正しました。追記)
ネタバレなし。
「機械知性体たちの輪舞曲」再読。
あれ?、時期柄か妙に説教臭く読めてしまいました。もちろん良い作品ですし感動する事も言うまでもありませんが、今の時期的にこれをpushしている場合ではありません。ファンの方や、「輪舞の人」さんがもしご覧になっていらっしゃいましたらすみません。再度レビューするのはまたの機会にさせていただきたく。
何を言いたいかというと、これ。「非実在青少年」ですって?
残念ながら、かような事を考えた方が都議会の先生方に少なからずいらっしゃるという事実を私は恥ずかしく思います。いや、はっきり言って怒りを覚えます。
この問題にくわしい方なら、この問題の本質と目的が児童虐待の防止にある事は既にご存知でしょう。いわばこれは、戦場の真ん中で「戦争映画があるから戦争に憧れを抱いた人たちによって戦争が起きてしまうんだ!戦場写真と戦争映画の防止法を作ろう」と叫んでいるわけです。
戦争自体と戦争を描いた絵とをいっしょくたにする神経の奇妙さは言うまでもありません。もちろん戦場に斃れる兵士の写真を見て兵士の家族はどんなに悲しむか、苦しむかということが問題になるのはわかります。(これが本来の「児童虐待」関連での問題です)。かといって、それと同じ理由で戦争映画/戦争画を規制するのは、どう考えてもおかしい。さらに、さらにそれとも違う「有害」「健全育成」の文脈でどちらもいっしょくたに規制しようとするというのは、ひねくれすぎています。
「有害」の過去の事を考えてみたいと思います。手塚治虫といえば、今でこそ「漫画の神様」「ヒューマニズムの伝道者」という評価なのですが、いわゆる「悪書追放運動」の槍玉に挙げられた事も二度や三度ではありませんでした。30歳以下の皆さんはご存知ないかも知れませんね。うそつくなよとお怒りになられた方もいらっしゃるのではないでしょうか。
私の世代では「アポロの歌」「やけっぱちのマリア」ですね。カコイイです。しかしながらいずれの作品も有害指定を受けていることは、検索してみればすぐにわかります。手塚作品にくわしい方なら、本筋のストーリーと無関係に登場して手塚作品どころか漫画そのものをまるで悪魔の所業でもあるように罵るスーツ姿のえらいひとをご存知でしょう。手塚から見ての規制側像がこのようなものなのです。
で、「有害」に指定した側は何を考えていたのだろう?こんな風に描かれた人たちの主張が気になった私は「悪書追放」でぐぐってみたのですが、運動を行っていた側の主張をみつける事はできませんでした。私の探し方が悪いのでしょうか?
もちろんgoogle検索では、意見の対立があるのにもかかわらず片方の主張しか出てこないタームがたくさんあります。しかし、むかしあれほどまでに叩きまくっていたエライヒトの意見がでてこないと言うのも奇妙すぎます。
「有害図書」で検索すると双方の主張があることはあります。ほとんど「規制側お役所」対「それを批判する個人」という図式ですが。しかしながら、これもお役所側にとって、たった今やっていることを説明しているのに過ぎません。あんたら、ん十年前に作品や作家だけでなく、読者の私たちまで叩きまくったのは、これこれこういうわけですと何故書けないの?当時TVには、漫画を読んでいるとバカになるとか俗悪だとかなんとか自信満々で語る自称文化人がたくさん出演していらっしゃったと記憶するのですが。
ひとつだけ例外がありました。「有害図書」で検索すると1ページ目にひとつだけ規制大賛成な個人サイト(?)っぽいのが出てきます。・・・どう思われるかはお読みになった皆さんの判断におまかせいたします。(リンクしません。ぐぐってください)
また、wikipediaで上記の言葉を検索してみても、なんとも歯切れの悪い記述にしか出会えません。
「我々の言論/運動によって『アポロの歌』『やけっぱちのマリア』が発売できなくなった事は輝かしき成果である!」と堂々と書いているサイトはみつけられなかった。いわば「そうするように求められたからやっている」お役所の現在の活動内容ばっかり。
少なくとも、このことを30年後の今堂々と自慢している人たちは見当たらない。
逆にこのことを時代の悪しき教訓として語り継ぐ人も多いし、不愉快な記憶として覚えている人、もうこんな事があってはならないと思っている方は、私のほかにもたくさんいる。
この事でひとつ解った事があります。
「悪書追放」はすくなくとも未来の自分に恥じないような運動ではなかった。
かつて協力した事を後悔したり、忘れてしまった人もたくさんいると思われる。でなければこの状況を説明しがたい。
とにかく、まずは実在する青少年の権利を守ってください。
追記です。
上記に挙げた2作品はいずれも今現在読む事ができます。だからこそ例としてあげているわけです。当時だって他県に行けば読めるでしょ、ならば問題ないじゃんと思わないでください。手塚作品だから今読めるだけです。どんな作品が各県の条例で今現在指定されているか、ほとんどの人は知らないでしょ。
条例案を読んで「レーティング/ゾーニング規制でしょ。ほとんどの作品が既にそうなってるじゃん。よく話題になる商業成年漫画だって、同人誌だってDVDだって」という意見も見られます。だったらなんで条例をつくる必要があるの?ということになりませんか。常識的には「なにいってんの、18歳以下は買うなって書いてあるし、買えないようにコーナー分けてあるじゃん。18歳以上なら個人の自由じゃないの」なんですが、都議会的には、これはゾーニングと関係ないらしいですよ。
くわしくはwikipediaの「有害図書#流通業界の対応」をお読みいただきたいのですが、都の「ゾーニングしろ(包括指定)」は実質的に禁書らしいです。
もうひとつ、すごく疑問なんですが、村上隆さんや会田誠さんの作品はどうなるのでしょうか。
前回にちょっと続き
例の条例案に音声による描写から十八歳未満として表現されていると認識されるもの
とあるので、おいおい?!と思っております。
なんだか奇妙な条文なので、疑問を呈しておきます。声で18歳未満を判断できるの?ホントに?が趣旨です。
下記、いずれもニコニコ動画に元動画がありますが、重いのでyoutubeの転載動画にlinkしておきます。元動画のアドレスが知りたければ、タイトルでググればすぐに見つけられます。
まず、これをどうぞ。エロでもグロでもあーとでも(苦笑)ありませんのでご安心を。
「リア充爆発しろ!」に絵を付けてみた
ボーカロイド曲なので人間が歌っている訳ではありません。ご存知でしょうが蛇足気味に解説すると、歌ではなく人間の声をサンプリングした一種のシンセサイザ、つまり声を出す「楽器」が演奏されているだけです。その曲に「えろ豆」というひとが絵をつけたものなのですが、何歳に聞こえ/見えますか?もちろん「楽器であって人間じゃない」なんて言う気はありません。
また、
【手描き紙芝居】リア充爆発しろ!【ミク+ルカ】(youtube版は中国語字幕入り)
のように、別の絵師さんが絵をつける事も可能です。絵がすこしだけアダルティーになっただけで印象が随分ちがいます。
「リア充爆発しろ!」を二人で歌ってみた*なないろ
困った事に(?)、最初の動画に別の声を当ててしまっても作品として成立します。元の作品よりチャイルディッシュに演じていますが、”何歳を演じているか”が言い当てられる人はいないでしょう。なぜわからないのかと言えば、「若さを演じている声」は「若い人の声」とは違うからです。無理に推定しようとすれば「随分のびやかに声が出ているから練習しているんだろう。10代前半ってことはあるまい」みたいな事になってしまい、「何歳を演じているか」という問いの答えとは別になってしまいます。
実際に何歳を演じていると言えるかは作品をとりまく文化に依存しているはずなのですが、この動画自体推定材料に乏しくて判断できない、というか、はっきり言えば、チャイルディッシュな声で歌う事そのものが目的なので、何歳かの人間を演じているわけではないのです。
販売元のページにいけば初音ミクの設定年齢が書いてあるだろって?それ信じるの?
漫画やアニメのキャラクターの設定年齢が描写と比較してかなり違和感がある事がある、というのはみなさんご存知でしょう。伝説巨神イデオンの登場人物の年齢に衝撃を受けたのは私だけではないでしょう。どう若く見ても20歳前半ということも無いだろう、下手すると30代じゃね?と思っていたのに、設定上は全員十代だったのですから。
さて、なんでこんなへんな事になるのかといいますと、そもそもの動機からずれて行っているからです。
「児童虐待を防止しなくっちゃ!」
(実写)児童ポルノって児童虐待の証拠写真そのものだよね
「作った奴だけじゃなく写真を配布する行為も罰する!」
モデルの年齢確認がメンドイんだけど。製作者もそんな低年齢じゃねえって言い張るし
「ええい。低年齢に見えればダメって事にしとけ」
低年齢じゃないモデルに扮装させてるのもあって、まぎらわしいよね。こうなると被害者いないし
「とにかくダメなんだよ!」
実写そっくりのCGも出てくるかもしれないよね。昔はやったハイパーレアリズムってのもあるかも
「そういうものを作ろうという思想じたいが悪なんだ」
となると、リアルに描かれていないものもダメなんだよね
「まあ、そうなるよな」
と、初めは人身売買まがい(またはそのもの)だの鬼畜の如き親が子供を死より苦しい目に合わせるような恐ろしい事が念頭にあったはずなのに、本人の承諾があるはずの裸婦像もだめとか、「見分けがつかないものもダメ」から「見ようとすればそう見えるものもだめ」になっていっているからです。
そういった、なにをしたいのか傍からはよくわからない主張が、日本に昔からあるチャイルディッシュなものに価値を見出す文化と衝突しているのです。*)
なにをどうしたいのか、もう一度始めから考えてもらいたいものです。
しょっぱなから追記:ちょっと不穏な曲でしたかねぇ。常識的には「かたるしすして発散できていれば問題ないでしょ。むしろ抑え付けると爆発しちゃう。第一虐待する奴って、それを仕事にして稼いでいるド鬼畜にせよ子供をひどい目にあわせる人外親にせよ、それだけである意味リア充だろ。そんな奴がこんな曲聞いてもイライラするだけでしょ」なんですが、エライヒトはそうは考えないらしいです。そういうひとのプロファイリングモデルは、不満がある奴に限って悪い事をするというものらしい。権力大嫌いなアーティストが多い理由がわかりますよね。
某絵師さんのページにあった「『条例に反対する奴は認知障害者だ』って言うんだったら障害者手帳と年金よこせ」という切実かつ、やけくそな文に涙。
消失関連はまた次回に。
*)「かわいい」の対義語ってなんでしょう。「かわいげがない」じゃなくて、「大人っぽい」のほうです。そういう意味の褒め言葉がなかなか出てこないほど私たちの文化は「かわいい」一辺倒になっているのです。私は「かわいいおばあちゃん」とか「うちの部長ってかわいいところがあるよね」とか年上に「かわいい」を使う事には違和感を感じますが、そういう用法が存在することは事実です。この文中で「チャイルディッシュ」「アダルティー」とカタカナを使っているのも、やさしい「かわいい」の対義語がみあたらないからです。
追記 一般論として、家庭内での虐待は加害者を憎んだところで解決はしないというのは事実ですよね。上のほうに鬼畜/人外と書きましたが、そういった邪悪な魂は誰もが持っているものだということすら否定してしまう事こそ偽善そのものだというのは言うまでもありません。(え~と、誤解を避ける為にさらに書いておきます。例えば----あんた、「愛のムチ」なんて偉そうな事言うけれど、「腹が立ったので怒った」という気持ちがまったく無いと断言できるの?愛する者に声を荒げるなんて不愉快だし苦しいだけでしょうに、なんで興奮して大声だしてるの?と言うような事です。)