雑記 Diary2009/05
ネタバレレベル0 : 「涼宮ハルヒの憂鬱」について全くしらない人でもOK
雑誌「NewType」で「凉宮ハルヒの憂鬱」と、にすいの「凉」の文字で記述されている事が話題になっています。
これだけなら、自社雑誌の特集タイトルで、なおかつ作品名だとは言え誤植だろうとも思えるのですが、公式サイトのこのページ以下のページだけ、にすいの「凉」記述があります。tytleタグとmetaタグだけにすいであとはさんずいの「涼」だというのも不思議です。作品名は「涼宮ハルヒちゃんの憂鬱」だけれどもウィンドウのタイトルバーには「凉宮ハルヒの憂鬱」と表示されるし、検索サイトのロボットにも「凉宮ハルヒちゃんの憂鬱」でひっかけて欲しいという事ですよね、なんだろこれ?
googleで「凉宮ハルヒ」とぐぐってもけっこうヒットするので、google対策ですかねえ?日本語としても「涼」と「凉」は同じ”すずしい”という意味だけれど、熟語としてはみんな「涼」のようです。
追記:公式サイトの表記は「涼宮ハルヒ」表記に戻ったようです。一体なんだったのでしょう。()
「国立メディア芸術総合センター」なるものの設立構想があるそうな。→こことかここ
公共の力でゲージツをサポートするってどうなの?作り手なら自分の作品くらい自分で見せろyp!という御意見がおありの方もいらっしゃるだろうと思います。その是非はともかく、見るほうの立場で考えてみると鑑賞機会は多ければ多いほどいいし*、作品はほっておけば散逸してしまいます。しっかり保管してメンテナンスしておかなきゃ古い作品はどんどん見られなくなってしまいますよ。*2
もちろん、どんなハコモノになるのか激しく不安だってのは事実ですが、まだ情報が出てこない段階なのに「国立メディア芸術総合センター」でぐぐってでてくる少なくないサイトが「国営の巨大ネットカフェ/漫画喫茶?馬鹿か!世紀の愚策。氏ねクソ役人」という論調なのはどうなのかと思うわけです。
万年情報飢餓状態の私としては、「そんなにイヤなら漫画や商業アニメ関連は一切抜きでいいじゃん。商業メディアで見られるんで充分だと思っているって事だろ!その数百分の一も鑑賞機会の無い作品の事を考えろよ」と言いたくなってしまいます。俺にもっと作品を見させろ!少数の観客に見せれば気が済む作り手も多いだろうけれど、見手はそうじゃないぞというのが私の魂の叫び*3
* 第一個人サイトに載せても気が付かなきゃそれまでだし、都内でフライヤー置いたって地方人の私には解らないので見逃してしまうと悔しい!のです。
*2 そういえば亡くなった田辺さんの作品、どうなったんだろう。
*3 と言っておきながら、今年もIFFに行き損ねてしまった。悲しい。
追記です:メディア芸術祭サイトを見てみる、この内容が文化庁のいう「メディア芸術」なんだろうとは思います。これを展示しても「巨大ネットカフェ」にも「国営漫画喫茶」にもならないだろうし、国営美術館の展示内容にふさわしくないとは言えないとは思います。
ただ、これを見にお台場まで行く人っておおいんだろうか?お台場にアニメファンが集まるのは他にコンベンション会場が無いからでしょ、とかメディアアートと歴史的関連性の低くは無い実験映画とかヴィデオアートとかは華麗にスルー?それでいいのかとか、色々不安材料はあります。
文化庁のページに資料がありました。→ ここです
映画・漫画・アニメ・ゲームなどの日本のメディア芸術
……にわかに不安感が増してきました。こればっか?何でファンが嫌がる事を率先してするのでしょうか()
「涼宮ハルヒちゃんの憂鬱」「にょろーん ちゅるやさん」終了
EDは最後のカットで
5人のイメージカラーが↓なのが気になる(括弧の中は一期キャラソンのジャケットで使われた色)
ハルヒ:赤(赤)
長門:薄紫(水色)
みくる:オレンジ(黄土色)
キョン:青(黄色)
古泉:緑(紫)
微妙に変わってるけどなんか意味あるんだろうか?涼宮ハルヒちゃんの憂鬱、にょろーんちゅるやさん15
EDは現在ここで配信中です。公式では配信終了しました。
ラストのおつかれさま
以外にも、00;00;15しらない
のシルエット、00;00;22うわさだけで
,00:00:30ラララ今夜
00;50;00でも主役は
の矢印もこの色ですね。
「ハルヒちゃん」本編では、05話 00;01;02ニワトリの骨30%、亀の骨40%
以降12話 00;02;07イメージはホストです
など、カットインするキャラクターの丸いフレームの色として数回登場しています。ただし、朝比奈さんはピンクですが。
これはおそらくは「ゴレンジャー」以降の五人組カラーなのかではないかと思います。
SOS団のキャラクター類型*は
ハルヒ=熱血
キョン=クール
長門=パワー
朝比奈さん=フェミニン
古泉=参謀役
ですから。
二次創作サイトねこうさプリンの「らーめん」さんによれば「ドラえもん」なんですが、むしろ原作の「涼宮ハルヒ」シリーズの骨格はかなり古典的なパターンをひねってあるようです。詳しくは次回。
* 私の知る限り、5人組の元祖は「科学忍者隊ガッチャマン(1972)」ではないかと思います。それを「ゲッターロボ(1974)」が、スポーツ選手3人+マネージャ+監督(博士)の形で復活させ、「秘密戦隊ゴレンジャー(1975)」「超電磁ロボ コン・バトラーV(1976)」で確立したのではないかと思います。なので作品によって5人目が「チビ」か「知恵者」かで揺らぎがあるのではないのかと
ネタバレレベル2 : 「涼宮ハルヒの憂鬱」/「退屈」まで見た人はOK
新作「笹の葉ラプソディー」が放映されました。公式web配信は5/27~6/2までの模様。時系列順放映によって、1期放映分を見ている人は見たはずの回の描写の意味が変わって見える経験をする事でしょう。
掲示板も大荒れです。同じ質問で何十回もループしていますが、少しずつ聞き方が変化しているようですし、口調も良く似ていて、同じ人が執拗に繰り返しているようにしか見えません。長門ゲーデルさんに叱られている模様。

彼(?)の疑問は聞きようによっては結構メタ的な良い質問だと思うのですが、何がわからないのか彼自身にもわかっていないようです。掲示板は「俺が何を知りたいのかを教えろ!教えるまで何度でも繰り返して聞くぞクズども」という人に優しいところじゃないと思うんですが。くわしくは次回(またか)。
前回の続きです。
「涼宮ハルヒの憂鬱」(原作小説)の書評としては、界隈で有名な「くるぶしあんよ」さんのサイトの『涼宮ハルヒの憂鬱』における少女の創造力はかなり前から読んでいて、こちら自体はかなり精密にまとまってるので、私如きがどうこうでもないのですが、こちらで話題になっているkagamiさんの書評が気になっていました。別件でぐぐっていたら偶然発見したのですが、おそらくこれですよね。実際、私は原作より先にアニメ版を見たので、1回目視聴ではアニメ版スタッフの仕掛けたトリック「涼宮ハルヒの成長物語」に引っかかっていたせいもあり、「ハルヒが虚無」ってなんの話?と思っていました。
で、私の感想なのですが、ハルヒシリーズ、特に最初の作品「憂鬱」がどんな話かというのは私などよりも「腐」の人女性ファンのみなさん(修正)のほうがよく解っています。
SOS団のキョン以外を男に、キョンを女性にし、ハルヒが主人公、キョンがヒロインに反転します。すると、不機嫌で退屈そうな新入生が「おめえの言うとおりだ、無かったらつくりゃいい!」と言って「団」を作るという、古典的な学園ものだという事が解ります。
団員は性別ですが、コンピ研はクラブの内容、「文」と「武」がひっくり返されています。
必要な物を強い奴と戦って手に入れるという、本来ならスカッとする啖呵やケンカの強さを見せるシーンなのに、相手が強くないせいで主人公の乱暴さが際立ってしまいます。憂鬱Ⅴの踏切での告白も、怖いものなしの乱暴者がふと見せる弱み、という定番のシーンです。キョンと読者にとって、"こいつ、強いだけだと思っていたら意外な面もあるんだな"と思うところです。そしてクライマックスは、敵味方がひっくり返っています。学校一の番長に目を付けられて決闘になり負けそうになった所を、主人公の暴力を快く思っていなかったはずのヒロインから声援を得て決闘に勝利するというパターンですね。ハルヒが居場所を得た事の象徴である部室を神人が破壊するのですが、そのことをハルヒ自身が望んでおり、神人が味方であるというのが逆転のポイントです。
しかし、こんな古典的な学園物っていつ頃の作品なんだろう。1960年代?
さて、kagamiさんの問いかけにもどって、ハルヒは虚無なのかと問われればそれはyesでしょう。ややこしい事を考える人をひ弱なガリ勉と呼んで笑い飛ばし、腕っ節と勇気だけで学園生活を渡ってゆく主人公は古い少年学園漫画の典型ですし、何も考えていないどころか唯一見せた思いがちっぽけな自分へのコンプレックスだというのが主人公の魅力でさえあったのですから。
ハルヒが虚無であるというのなら、これら過去の少年たちが憧れたヒーロー達もまた虚無だったのです。
小ネタ
”あらためて放送”DVDのCMがうpされています。恐らくは角川さんの事、黙認しているでしょう。(角川シールがついて公認になったようです 09/06/01確認)
場所は学校の後門(憂鬱Ⅰ00;01;15 キョンでもちょっといて欲しいみたいな
)のすこし上あたりでしょう。カメラは坂のかなり上の方にあります。googlemapストリートビューで見ると旧館と体育館の間あたりに門がありますが、そのあたりに勾配がゆるくなるところがあります。そのさらに上のほうにカメラはローアングルで置かれているように見えます。朝倉今日、日直なのわすれててさ
(憂鬱Ⅱ00;00;50)のカットよりすこし坂の上のほうですね。視覚はどうしても動くものをみてしまうので、ボケさせなくてはならない人物をどうしても見てしまうのが残念だったり、役者さんの走る音がいかにも、朝倉さんよりつらそうだったりしますが、それをおぎなう「消失」の情感がいいですね。え?おまえはtilt up(アニメ用語ではpan up)が好きなだけだろうって?
ちなみに、聖地巡礼サイトを巡っても今日、日直なのわすれててさ
のカットと同じアングルの写真が掲載されている事は少ないのですが、ローアングルで望遠でないと撮れないので、おそらくコンデジでは無理だからでしょう。……って、google mapの検索窓にモデルになった高校の名前を入れると、でもちょっといて欲しいみたいな
と今日、日直なのわすれててさ
と同じアングルの写真が表示されますよ!
追記 : フレーム右端に制服の少女の後姿、ナメて坂下の甲(光)陽園の風景。ゆっくりtilt upしてカメラが止まると平野綾の声「バカ…」がカブるというクサイ演出が脳内再生されまくるんですが、つくづくセンスが古いなあと反省する昨今()
ネタバレレベル2 : 「笹の葉ラプソディー」まで見た人…まだ見ていない人もこれくらいならOKかも
「笹の葉ラプソディー」公式web配信が開始されました。いままでも公開は1週間でしたので、6/2までと思われます。配信は終了しました(09/06/03)
今回、面白かったのはハルヒのテンションが切れて16年か、長いなあ
と言った後のキョンの態度です。(00;04;46と00;04;56から)
相当に不気味だ
とか反動が怖い
などと、モノローグモードで平然と言っているのですが、画面上のキョンはハルヒにつられて憂鬱そうにしています。映像と視覚は違います。肉眼は見たいものを見ますが、映像は冷徹にそこにあるものを写してしまいます。(もちろん、だからと言ってごまかしがないわけではないのですが)。3年前放送分、いわゆる「1期」では、キョンは思っていたことを最後まで顔に出さずに迷惑そうにしているので、今回の放送はナレーション/モノローグと映像を分けて、キョンが恥ずかしがって隠していた彼自身の心情を描く戦略なのだと思いました。
1期放送順では、キョンは視聴者に(?)たとえ憂鬱以降の話をしていても、ずっと彼自身の心情を語らずにハルヒにつれ回される事を迷惑がっていたとナレーションしていました。それが、文化祭のライブや雨の日の相合傘でハルヒを見直したように語り、やっと最終回の憂鬱Ⅵでこれもごまかしだな
と悟りあるはずが無い!
と叫ぶ形になっています。
今回、私たちは「あるはずが無い!」後のキョンの話を再度聞きなおしているのです。
以降は少し小ネタ
1.短冊の色がハルヒちゃんの5人組カラー(ハルヒレッド、キョンブルー、有希パープル、みくるオレンジ、一樹グリーン)になっています。ハルヒが「エンドレスエイト」でも発揮する超コーディネート能力で選んだのでしょうか。
2.いねむり病は実在し、ナルコレプシーといいます。そういえばこの病名、浅野優子さんの同名作品で知ったんだよなあ。
3.新しいED「止マレ!」坂を駆け下りるシーンは通学路のグラウンド裏あたりでしょうね、上記DVDCMで奥の方の右側に緑が見えますが、そのあたりで学校側を向くとこんなふうに見えます。